冬の張家口
(1)
張家口・大境門近くの狼煙台付近
この冬、寒い時に寒いところへということで、張家口へ行った。
北京の北の守り居庸関のさらに北西に位置する。万里の長城も残り、
そこに大境門がある。いわばモンゴルとの最前線だった。
後に日本軍が徳王を立て蒙古連合自治政府の首都ともなったところだ。
2003年1月9日(木)
10:35分、全日空905便で成田発、13:35分、北京着。
北京は思ったほど寒くはなく東京と変わらなかった。
予定どおり北京の市内には入らず、最初の目的地・
蔚県に車で向かうことになった。
蔚県は張家口の南160キロのところにある。我々は北
京からまず東の蔚県に向かい、翌日、次の目的地の宣
化へ北上し、さらに北の張家口へと行くものと思ってい
た。ところが道路事情で、まず宣化へ向かい、南下して
蔚県へというルートをとった。この間、実はその事情を聞かされていなかったので「あれ、なんか方向が違うんじゃな
い?」などと話し合っていた。
しかし、今回は北京のガイドさんは蔚県に行ったことがなく、張家口からもう一人ガイドさんが来ていた。この日、張
家口から200キロを走って北京に着いて待ってくれていた趙暁輝さんは日本語が話せない。そこで北京の張永平
さんと2人のガイドさんが同道することになったのだ。だから道を間違うということはないのだった。
蔚県までは6〜8時間という、かなり幅のある話だった。
最初のうちは快適なドライブだった。普通は夏に訪れ、黄緑に彩られた山々を見ながらの旅なのだろうが、今は真
冬で荒涼とした風景だが、それなりに車窓の風景を楽しんでいた。しかし4時間位、走った頃あたりからだろうか、外
は暗くなり始め小雪も舞い、しだいに寒くなりはじめた。
北京が東京と変わらない気温だったこともあり、寒さを考えて、もう一つの股引(?)を重ね着するのを忘れていた。
そのうち高速道路の路面が凍結しているということで、スピードも極端に落ち「ヒーターが効かなくなりました」という
ことになった。窓は白く凍りつき(もっとも暗くて外は見えなくなっていたが)、何時着くんだろうか、と不安になってき
た。
時どき車を停めては道を聞いている。実は張家口のガイドさんも蔚県には来た事がなかったのだ。「蔚県で何を見
るのか」と途中聞かれた。シーズンオフの不思議な旅行者に見えたようだ。
それはともかく、だんだん田舎道を走り、隣は田んぼというところまで来た。さすがに間違いだったようで苦労して普
通の道路に復帰した。ようやく蔚県の街にたどり着いたが、さて目的の招待所(今回はじめてホテルではなく招待所
を予約した)が見つからない。携帯電話(広い中国ではほんとにありがたい)で招待所の車に迎えにきてもらい、そ
の車のあとについて、やっと宿(蔚県招待所)に到着した。夜8時になっていた。
あとの話だが、このコースを企画したN氏は「一時は今回はちょっと凝りすぎたかと反省していた」と言った。
招待所の翌日の朝食、粟に漢方の薬味、胡桃などが入ったおこわが珍しかった。 翌朝の蔚県招待所
宿では珍しい客に支配人(女性)まで食卓に現れ、一緒に乾杯して歓迎してくれた。
この招待所というのは中央の役人などが地方を訪れたときに利用するものらしく思ったより立派だった。私達の泊
まった部屋は中が二部屋に分かれ、おそらくは偉い役人が一部屋をつかい、もう一部屋は大きなテーブルが中央
に置かれその両脇に二つのベッドがあるというもの。二つ目の部屋は下の役人が使ったもののようだ。ちょうど我
々は3人。夜の宴会にも都合よく、なかなかの使い心地だった。
蔚県の玉皇閣
1月10日(金)
凍りつくような零下15度の中、車でまず玉皇閣へ。
蔚県は今は小さな地方都市だが、かつてはかなり重要な都市だったようだ。知識がないのでわからないが交通手
段の発達などで通過地点となってしまったのかもしれない。この玉皇閣は城壁で囲まれた街の一番奥に位置し城
壁に接して建てられている。玉皇は道教の最高神で、この玉皇閣は古く立派な建物だった。また、一番、最初の写
真・南門では剪紙(キリ絵)を実演・販売しているが、これは歴史も古く有名だ。
南門 玉皇閣
玉皇閣
玉皇閣
街を囲む城壁
南門の上から街を望む
古い城壁の残る街・宣化
1月10日午後、車で宣化へ。ここでは張家口のガイド・趙暁輝さんの顔で文物局(だったと思う)の王さん(女性)が
案内役に加わってくれた。お客3人に対しガイドさん、運転手を含め中国人4人と贅沢な一行となった。
あとでガイド役の趙暁輝さんは張家口国際旅行社の社長さんでもあり、外事部(外務省)にも属するという方である
ことがわかった。どうりでどのホテルでも顔がきいた。
さて宣化である。明の時代に50万の大軍をひき連れた正統帝がモンゴル軍に追われ、ここ宣化を通り北京寄りの
土木(土木の変)で大敗し捕虜となったこともあった。
宣化の城はほぼ正方形、北京の前門に相当する南門(昌平門)へ車は向かった。
街の中心は近代的 南門(昌平門)
ついで鐘楼(清遠楼)、鼓楼(鎮朔楼)へ。これらは大きな鍵がかかっていたが、文物局の王さんはそれぞれ開けてく
れて登ることが出来た。また鐘楼の下の部分は閉鎖されていたが、これも王さんが開けてくれ、そこに数百年の間
に石畳が10センチ以上もへこんだ轍を見ることが出来た。
鐘楼 鼓楼
鐘楼の下の石畳。車輪跡が10数センチへこんでいる 鐘楼の鐘
鐘楼に登ってみると、まだ古い街の面影をみることが出来た。いくつか紹介しよう。
義和団事件の教会?
宣化の街中のホテルで昼食となったが、偶然、ホテルの近くで教会を見つけた。メンバーのN氏によれば義和団事
件のとき、焼き討ちにあった教会ではないか、という。事件は1900年、教会の建設は18百何十年かという説明だ
った。一応、符合する。それを救出するためにドイツ軍がここまできている。とするとドイツ系の教会という事にな
る。それはともかく内部は重厚な造りの教会だった。
”遼”の大臣の墓
文物局の王さんが「最近、発掘された遼の大臣クラスの墓がありますが、見学しますか?」という。遼といえば去年
集通線(集寧ー通遼)沿線の林東高原でその、かつての都を訪ねてきたばかり。興味をかきたてられ行って見るこ
とになった。宣化郊外の周りに小高い山が望める、少し林東高原をおもわせるところ。ここは遼の版図だったのだ。
しかし内部の撮影は禁止だった。地下の墓の壁面の絵は優雅な衣装の貴族の姿が描かれていた。華麗な遼の
貴族の生活が想像されるものだった。
墓の入り口 墓の遠景
この後、夕方、車は張家口へ。張家口迎賓館に到着のあと、10日の夜はレストランでガイドさん2人とともに羊のシャ
ブシャブを食べた。
40度の地酒で乾杯を重ね話しがはずんだ。張家口のガイドの趙暁輝さんの子息はなんと日本の大学に留学中だ
という。そして留学直前にはこの街で一番貧しい地域で3日ほど過ごさせ、留学中はそこでの生活を忘れずに勉学
に励むように諭したという。東北地方のT大学を選んだ理由について趙さんは「一流大学であること、魯迅の藤野先
生の大学であること」と言った。かなりの日本通だったのだ。今、中国の人は外国の大学といえばアメリカが一番、
希望者が多いと聞く。そんな中で趙さんのように真面目に日本の大学を選んでいる人もいるとは、うれしい話ではな
いでしょうか。
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